ゆとり世代が考えるマネジメント

ゆとり世代のサラリーマンが世代間ギャップや新しい時代のマネジメントを考える

悩む人の共通点は「○○すべき」にとらわれてしまうこと

うつ病が社会問題になっている。数年前までは「気持ちの問題」という根性論を見かけることも珍しくなかったけれど、今は理解が進んできたようだ。僕自身、ストレスで眠れなくなるという時期が2年くらいあった(しかも華の大学時代に)。社会人になってからは、同じような苦しみを感じている方の相談にのる事が多くなった。そんな中で気づいたのだが、そうやって悩んでしまう方にはある共通点がある

 

それは、「○○するべき」ばかり考えて「○○したい」という気持ちをなおざりにしていることだ。悩みの内容は人それぞれだが、このことは100%全員に共通していた。他ならぬ自分も、大学のサークル時代にリーダー職についた時「リーダーとしてどうするべきか」ばかり考えて、病んでしまった覚えがある。

 

恐ろしいのは、この状態に自分では気づけないことだ。僕の場合は、「お前はどうしたいんだ?」という友人の問いかけを受けた時にパッと答えることができなかった。その時初めて、「自分がどうしたいか」という気持ちを忘れてしまっていたことに気づいた。

 

特にビジネスの現場では、2つの選択肢で悩むことが山ほどある。そして、悩んでしまう選択肢はぶっちゃけ「どっちも正解」であることがほとんどだ。ゆとり世代や若手は真面目な人が多いから、そんな時に「どうすべきか」を延々と考えてしまうのだ。

 

そんな僕たちゆとり世代の悩みを救うのは、ベテランの「じゃあお前はどうしたい?」という問いかけだ。別に感情で選択を決めろというわけではないが、「自分がこうしたい」という意思を持ったうえで選んだ選択は、仮に失敗しても後悔しないのだ。僕の経験上、「こうすべき」だけで道を選んだ場合、道中では「あっちの道を選ぶべきだったかも」と悩み、ゴールにたどり着いても、「あっちの道ならもっといい結果が出たのではないか」と悩む。

 

先述のように今はこの問題に対する理解が浸透してきたから、マネジメント層の管理能力がより問われるようになってきている。それで悩む方も多く見てきたが、「自分の部下が”こうするべき”にとらわれていないか」「”こうしたい”という意思をなおざりにしていないか」を注意することが、一つの対策になると思う。

「若手を褒める」取り組みにこだわるより、一人の対等なビジネスマンとして接する

マネジメント理論の中で、「褒める」「叱る」のどちらがいいかという議論はよくある。最近の世の中的には、ゆとり世代は「褒めて伸ばそう」という考え方が主流らしい。叱られるのが苦手なThe ゆとり世代の僕としては、この風潮はありがたい。

 

だが、「若手を褒める」ことが目的になってしまう取り組みには違和感を感じる。若手であってもビジネスマンである以上、手を抜いている場合は叱るべきだし、成果を出したら若手であろうとベテランであろうと褒めるべきだと考える。

 

重要なのは、年齢によって対応を区別せず、ひとりのビジネスマンとして接することだ。年下の意見であっても、それが間違っていたらきちんと指摘し議論するべきだ。逆に、素晴らしい意見なら若手の意見でも採用するべきだ。若手は仕事で褒められたからモチベーションを上げるのではなく、「仕事が認められる」⇒「ビジネスマンとして対等に接してくれたと感じる」から、モチベーションを上げるのだ

 

人間は甘い生き物だから、手放しで褒めてもらえる人のところにいるとサボり癖がつく。これは僕もそうだし、若手でもベテランでもそうだと思う。が、その精神が組織に浸透してしまうと、誰もが自分にとって都合のいい人のもとで自分に都合のいい仕事しかしなくなり、組織が崩壊していく。そういう意味でも、若手=褒めるのではなく、若手でもベテランでも𠮟るべき時は𠮟り、褒めるべき時は褒めるのが本当のマネジメントである。

 

苦労を肯定するのはNG

意外かもしれないが「苦しい思いをしたけれど、それでも努力してきたから報われた」という話が凄く好きだ。でもたった一言追加されて「苦しい思いをしたけれど、それでも努力してきたから報われた。だからあなたもそうしなさいという話になった瞬間、正直もう話は聞きたくないなと思う。

 

先述のように努力ストーリーは大好きだから、色々なアスリートの本を読む。そして彼らに共通するのは、自分が努力して成功したからといって、他の人に同じことを強要しないということだ。書籍やTVのインタビューの中で、「苦労する必要はない」「フィールドで出した結果がすべて」という内容を明言する方も増えてきている。

 

特に若い人のマネジメントをするにあたって、「苦労」を肯定することは絶対にNGだと思っている。それはゆとり世代が軟弱だからという意味ではない。むしろ、学生時代に勝手にゆとり教育にされたり、リーマンショックやコロナショックで苦しんでいる社会人を見てきたゆとり世代は、苦労しても報われるとは限らないという厳しい現実をよく知っているからだ。

 

勿論、仕事は楽なことばかりではないし、ぶっちゃけ苦労の方が多い。でも、その苦労を無責任に肯定して「頑張れ」という人のところで働きたいだろうか。どうせ苦労するなら、その苦労に寄り添ってくれる人のところで働きたいのではないか。今の時代、転職もかなりハードルが低くなったし、苦労を肯定する職場からは人材が流出していくだろう。

 

 

 

「意見を言わない」ことこそ、若手の長所である

小学校の頃から今に至るまで、耳にタコができるくらい聞いた言葉のひとつに「もっと自分の意見を言いましょう」というのがある。もう少しビジネスっぽい話なら、ボトムアップで若手目線の意見をどんどん言ってほしい」とよく言われた。

 

何かしらの意見を持ち、それを積極的に発信することは素晴らしいことだ。一方で、人の意見を聞くことも素晴らしい能力ではないだろうか。「ボトムアップでどんどん意見を言うのが素晴らしい」という風潮は「意見を言えない人には価値がない」という意味に僕には見えた。

 

ちなみに我々ゆとり世代は「受身的で自分の意見を言わず指示を待つ」「そもそも仕事に関心がない」といわれているらしい。確かに、そういう方が増えていると思うけど、それがデメリットだとは思わない。指示を待つのは「指示をしっかり守って堅実な仕事ができる」と言い換えることができるし、仕事に関心がないのは「家族や趣味を大事にしている」と言い換えることができる。

 

「若手が意見を言わない、指示を待つ」と嘆くマネジメントの方も多いが、それこそが若手の長所であると僕は思う。「意見を言うのが素晴らしいことだから、もっと意見を言いましょう」という発信は、はっきり言って逆効果になる。意見を聞くことが得意な人にとっては、この発信は自分の長所を否定されるのと同義であり、せっかくの長所を失ってしまうのだ。

 

意見を言う方が得意な人が積極的に意見やアイデアを発信する。意見を聴く方が得意な人がそのアイデアをもとに具体化していき実行に移す。この2種類の人間が会社にいてこそ組織が回るのであり、マネジメントがどちらか一方を神聖視してもう一方を追い出すのは、自分で組織の首を絞めているのに他ならないのだ。

 

 

就活イベントで感じた次世代の凄さ

最近、就職活動中の方とオンラインイベントで交流する機会があった。折角なので、その時抱いた感想を書いてみたい。

 

率直に驚いたとは、特定の分野に専門性がある就活生が半数近くいることだ。たった5年前の話だが、僕の就活の時は学生に求めるのはポテンシャルのみで、専門的なスキルは入社してから各部署で磨くものだった。それがたった5年で、「自分はこういうスキル/資格があって、こういうメリットを会社に提供できます」という学生が驚くほど増えたのだ。

 

もしこの子たちが入社して、その専門性を発揮しはじめたら、僕の居場所はなくなるだろうな…。冗談ではなくそう感じ、こっそりとビジネスの勉強なんかを始めてみたりした。

 

高いスキルを持った次世代と接してみて、僕が受けてきた教育をそのまま教えるのでは彼らの良さは発揮されないだろうなと思った。そもそも人は自分が教えられたように人に教えるのだが、自分の時代の正解が次世代の正解とは限らない。僕の時の新人研修は、全員を集めて同じことを教える時間がほとんどだったが、同じことをしては折角の彼らの専門性を消してしまう。

 

今後の社内教育は、全員が知っておくべき内容と、専門性の高いスペシャリスト用の内容を明確に分ける必要がある。ビジネスの根幹にかかわる部分(マーケティングや戦略、財務知識等)の基本の基本だけを全員が共有し、かつ自分の分野については高い知見を持つ集団が今後成長していくだろう。専門知識を深めるだけでも、全員同じ教育をするだけでもいけない。誰もが知っておくべき知識と、専門家が深めるべき知識を正しく振り分けること、これが次世代の教育に最も重要なことであると思った。

 

 

 

 

才能か重要なのか、努力が重要なのか

「才能が重要なのか、努力が重要なのか」この問題が多くの場所で議論されているのを見てきた。僕も大学生の時にこの問題にぶつかってから色々な本を読んで考えを巡らせてきた。まだ答えは出ていないけれど、個人的に今一番納得のいっている答えを書いてみたい。

 

 結論から書くと、努力は重要だが、努力では埋まらない才能の差というものは存在すると思う。多くの人から批判を受けそうだが、死ぬほど努力しても埋まらない才能の差というものを痛感して打ちのめされた経験が、少なくとも僕にはある。

 

正直に言って「努力は裏切らない」「努力は素晴らしい」と洗脳のように言い聞かせて何かをやらせることは僕は好きではない。じゃあ、スポーツの試合や音楽のコンクールで結果が出なくて涙をのんだ方は努力が足りなかったのか?僕はそうは思わない。厳しい話かもしれないけれど、努力だけでは絶対に埋まらない差は存在する。

 

だが、僕は努力することに意味は絶対にあると思っている。それは「一見報われなかった努力が、長期的に見れば報われる」例を数多く見てきたからだ。

 

僕の場合は、大学時代のサークル活動で、部長的な立場にいながら結果を残すことができなかった。必死に頑張ったとは思っているが才能の差には勝てなかった。でも社会人になって、その時の苦しさを知っているからあまり病まなかったり、チームで仕事をする時のマネジメントについては今でも自信を持っている。正直、学生時代は報われなかったと思った努力だけれど、社会人になって数年たった今になって、あの時の努力が報われていると感じている。

 

努力しても結果が出ないからといって、「自分が悪い」「努力に意味がなかった」とは思わないでいい。環境が変わって違うことに取り組み始めたとき、その努力が思わぬ形で報われることもある。だから、努力しても結果が出ずに苦しんでいる人に、「努力すれば結果がでるから」と言い聞かせて同じ場所に置き続けるのはやめた方がいい。その人の努力は、違う方向や違う場所ではぴったりとかみ合って、ものすごいアウトプットを生み出す可能性がある。(むしろ、結果が出ないのに努力を継続できる人はそれ自体がとんでもない才能であり、一刻も早くその努力がアウトプットにつながる場所を探してあげた方がいい)

 

 

一番多い、部下がモチベーションを失う原因

サラリーマンには「意味のないこだわり」に振り回されている人がとても多いと感じることがある。

 

例えば、資料の色使いで「ここはこういう色だろ」と上司に言われてその通りにしたら、そのさらに上司から「この色は違うだろ」と言われて元の色に直されたという話を聞いた。正直、これは僕でも「じゃあさっきの直しの時間は何だったのか」と思ってしまう。

 

資料の色使いなんて半分以上趣味の領域で、何が正解なんて人によって違うはずだ。それを「これが正解」と人に押し付けてしまうのは非常に危険である。もちろん、より伝わる色使いを考えることは重要であるが、正解を指定してしまうとその人はそこで考えることをやめてしまう。この、「本来正解がない事柄に正解を決めてしまう」パターンが僕が知る限りモチベーションを失う原因ベスト3の1つであると思う。

 

正解は人によって違うし、時代によっても違う。特に時代が急スピードで変化する現在、「正解」も物凄いスピードで変わっている。スポーツの世界が分かりやすいが、数年前まで通用した戦術が今では全く通用しなかったり、数年前まで常識とされていた練習がスポーツ科学によって意味がないと証明されたりということがざらにある。

 

だから、自分の正解と相手の正解が違っていた時に、相手を直させるのではなく、自分の正解を疑ってみることも必要だと考える。勿論、1+1=2みたいな明確に正解があることについては訂正するべきだけど、「資料の色使い」とか「忘年会の店選び」とか「話すスピード」のような正解が普遍的な事柄は、自分と違うなと思っても一度自分の正解を疑ってみることが相手の成長にも自分の成長にもつながると感じる。